感謝を込めて「ありがとう」
日本人は「ありがとう」ってよく言うよねと昔言われたことがあります。
確かに、外国の方に比べて言う率は高いのかもしれないと当時は思いました。
と同様に「すみません(ごめんなさいの意味:sorry)」も言い過ぎだと言われた記憶があります。そんなに言わなくていいんだよと。(笑)
「すみません」はあまり言いすぎると自分の気持ちが下がるのもありますが、相手を少し不快な気持ちにさせてしまうのかもしれませんね。
英語圏での話なので日本の感覚とも少し違うかもしれませんが、確かに言い過ぎはよくないなと思って、ちょっと気を付けようと思いました。
「ありがとう」に関しては感謝の気持ちを表す言葉なので、たくさん言ってもいい気はするのですが、感覚的にありがたみがなくなるのかな...?どうなんでしょう?
と、まあ、前置きはさておき、
人に感謝をするとき、お礼を言う時、「ありがとう」という言葉を使いますが、なぜ「ありがとう」なんでしょうか?
他の言葉でもよかったのでは?
なーんて言い出したらきりがないですが、なぜ「ありがとう」という言葉が感謝を表す言葉になったのか。
今回はそれを調べていきたいと思います。
「ありがとう」漢字で書くと「有り難う」
普段、漢字で書いたりしないので、そういえばこういう字だったなとしみじみ思いました。
急に漢字で書いてって言われたら、あれっ?って一瞬考えてしまうと思います。(笑)
「有り難う」
「有り」と「難しい」を使うんですね。
語源は「存在することが難しい」つまり、「めったにない」「めずらしい」を意味する「有り難し」という言葉。
丁寧に言うと「ございます」を付けますよね。
「ございます」が続く言葉を「ウ音便化」し、「有り難うございます」となり、さらにそこから「ございます」が省略されて「有り難う」となったそうです。
少し脱線します。
「ウ音便化」
(って言われても...って思ってしまったのですが、私だけかな。)
言葉的に最後が「う」になることなのかなと思いましたが、半分合ってました。
最後に限らず、語中・語尾の音が発音の便宜にしたがって「う」の音に変化することだそうです。
他にも、イ音便・撥音便(んの音)・促音便(っの音)を合わせて「音便」というそうです。
話は戻りますが、
昔は「めったにない」「めずらしい」というそのままの意味で使われていたそうです。
枕草子の『ありがたきもの』ではそのままの意味で、下記のような例が挙げられていました。
・姑に思われる嫁
・主人のことを悪く言わない従者
・少しも癖のない人
などなど。
今と全然違った意味で使われているのを見るのも面白いですね。
現代語訳されている本やサイトも多数ありますので、気になった方は見てみるのもいいかもしれません。
いつから今の意味に?
「存在することが難しい」という意味が、なぜ今の「ありがとう」の意味になったのか。
今の意味で使われるようになったのは室町時代あたりからと言われているそうです。
それまでは「かたじけない」が今の「ありがとう」の意味だったとか。
「かたじけない」って武士が言っているイメージが強いんですが、やんごとなき方たちも使っていたんですね。
また、江戸時代は身分によって使い分けていたそうで、二つが並走している感じだったんですね。
仏教の教えが広がり、感謝の意で使われるようになったそうですが、初めは人への感謝というよりも、神や仏に感謝や感動を伝える言葉として使っていたそうです。
近代以降、今のように相手に感謝を伝えるときに使うようになっていったとのこと。
『盲亀浮木のたとえ(もうきふぼくのたとえ)』
感謝の意として使われるようになった仏教の教えで、『盲亀浮木のたとえ(もうきふぼくのたとえ)』というのがあります。
お釈迦様が、お弟子さんに人間として生まれてきたことの有り難さを説く例え話です。
大海の底に一匹の目の不自由な亀がいて、その亀が百年に一度、息を吸いに波の上に浮かび上がってくるのだそうだ。
ところがその大海に一本の浮木が流れていて、その木の真ん中に穴が一つ空いている。 百年に一度浮かびあがってくるこの亀が、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すことがあるだろうか。
誰もが、あり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れない。
人間に生まれるということは、この例えよりも更にあり得ない。
とても有難いことなのだ。
人として生まれた時点で「ありがとう」は始まっているんですね。
ありえないことがもう起こっている。
この例え話を知るまで、そういう風に考えたことがなかったのですが、
もし自分が草として生まれてきていたら、ミドリムシとして生まれてきていたら、魚として生まれてきていたら、他にも哺乳類や鳥類などなどいろいろあるし、それぞれの生き方があるんだと思いますが、こんなにも文明にとんだ文化を生きることはなかっただろうし、こんなにも悩んだり、喜んだり、感情豊かな人生を送ることはなかったのかもしれないと思うと本当にそれだけで「有り難い」んですね。
こんな世の中だし、悩みも絶えない、なんで生きてるんだろうとか思うこともあります。(そんなこと言いたくないですが)
すでにありえないくらいの幸せが起こっていることへの感謝を忘れて、今を生きることで精一杯になっている。
「ありがとう」という言葉は幸せはもう起こっているんだよということを思い出させてくれる言葉でもあったんですね。
当たり前じゃない。
「ありがとう」の反対語「当たり前」。
意味を知った今はすっと理解できますね。
当たり前のことじゃないんだと。
当たり前って思っていたら、確かに「ありがとう」という言葉は出てこないですよね。
人に何かしてもらうことも、今すごく便利に生活できてることも、人間として生きてることですら。
普段、当たり前って思っていたことも、見方を変えてみたらまた違った感覚になるのかもしれません。
最後に。
今まで「ありがとう」という言葉を作業のように言っている時とかもあったのですが、今後はひとつひとつ丁寧に伝えていきたいなと思いました。
忙しいとどうしても乱雑になってしまったりとか、ただの返事になってしまってるときとか、意味を知った今思うと、もったいなかったなと思います。
『盲亀浮木のたとえ(もうきふぼくのたとえ)』もそうですが、昔の教えって核の部分をついているものが本当に多いなと感じます。
時代の変化ですたれてしまうこともありますが、こういう教えこそ今の社会には必要なんじゃないかなとも思いました。
まずは自分から。
感謝の気持ちをちゃんと込めて伝えていきたいと思います。